なにわのアルゴ座

星見が好きな大阪のおっちゃんのブログです

夏の大三角形 きれいな空はウォーリーを探せ状態編

以前にどうしようもないほど寂しい大阪の夏の大三角形を記事にしましたが、信州では同じ対象がこう見えてしまいます。

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下手くそな僕が撮ってもこれですから(...全力です)、同条件で上手い人が撮るともっともっと恐ろしいほど美しい写真になることでしょう。肉眼でも天の川が見えてしまうのでそれだけでも都会に住んでいる人間には驚きと感激の涙でいっぱいになる本当に羨ましいほどの空で、僕の主目的は笑われそうですがその天の川を肉眼で見る、それがメインの信州行きでした。

ただ、都会人がこんな沢山の星空の下に行くと、また思いもよらないことが待ち構えているんですよ、、はい(またですよ)。

 

 「よーし、極軸合わせだ、、北極星... えっと、、どれだっけ(??)」

 

北極星の辺りに、みたことの無い星がいっぱいあるのですよ。おぉ、こんなに偽装されたらぜんっぜんどれがどれが北極星かわからんー(@@)/ と、もう大変です。

刻々と時間は過ぎてしまう(というほどのロスではない)のですが、パッと見て一発でわからんという恥ずかしさ、妙な焦りから、意外にあわわと手こずる羽目になります。

まだ撮影や観測のもっともっと手前でこれです。

北極星だけじゃありません、当然登っている他の星座にも見たことのない無数の星がわらわらじゃんじゃんかと輝いて、もうすごいのなんの。勝手に星座結び放題といいましょうか...スマホなどの星アプリ(スカイサファリを使っています)で表示する星等級数を思い切り増やして、画面が星の点々でいっぱいになってわけわかんねーーー、そんなのと同じ感じです。

え?アレと、アレと、あれだったよなぁ。。。で、結局また初めから結び直して何度も確認しないとすぐに見失ってしまいます(ロストというより、見えすぎて懐かしの”ウォーリーを探せ”状態です)。

決して自慢できることではありませんが、星座をただ結ぶのには大阪近郊の少しマシな空の方がビギナーには簡単に結べたのです。

星座はずいぶんと昔にある程度決まってしまいましたが、その頃には世界各地でこの信州よりももっと星が見えていたでしょうし、人間の視力も全人類の平均値が良かったと思います。そうすると僕が見たあの無数の星状態よりももっと更にすごい夜空の中で、よくまああの星座(中には無理やりだよな...というのもあります)を考えついたものだと感心します。今ほど人の行き来も含め地方地方の物流が容易では無かったでしょうし、地域によっても結ぶ星は独自でこしらえるローカルな神や英雄など数多あったでしょう。それを一体どうやってギリシャ神話でほぼ一本化し統一成し得たのか、それで他国の発言力のある誰か要人からも不服が出なかったのか、そういうことも不思議に思えてきます。

現地に戻りますが、しばらく格闘して極軸をようやく合わせ、今の天球の状態を把握したらなんとか落ち着いてくるのですが、それまでの自分の脳内のよく見てる星状態と現場で眼に入っている圧倒的な星の量とのすり合わせに時間がかかってしまい、それもまた「おいおいほんとにすごすぎだな、信州の空は。。。」と感じます。

これだけキレイに見えると腕を磨いていっぱい写真を撮ってみたくなりますね。でもこういう空を見れる機会って1年に数えるほどなので、まずは眼で見るのを優先してしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

夏も終わり 遠征地で感じるプチ古代シュミレート

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信州の夜空は晴れればやはり素晴らしく絶品で、しばし我を忘れて機材にも手を付けずに見上げたままずーっと眺めてしまい、首が痛くなったり、グラン~とふらついたりして「あ、見入ってしまったわ。。。」と長いこと佇んでいた事実に気がつくことが多いです。

夜半からは絶倫ゼウスの息子ペルセウスにつづいて牡牛の昴やアルデバランぎょしゃ座のカペラ、と次々と登ってきます。秋が近くなってきましたね。

しかし、キレイに見えてても気がつかない間に星の数が減ってきます、エリア全体が雲に包まれて星は消え望遠鏡も人間も全て超びちょびちょウェッティーになり、観測時間よりも空待ちすることの方が比較的多く、夏の高山遠征はかなり運任せでリスキーなのかもしれません。

星見好きといっても都会のベランダ観望ばかり、出かけてもちょっとマシな大阪近郊というまっとうな天体観測経験値が乏しいものですから、たまに光害の少ない地域に行くと都会では見れない星を見る以外の様々なことが体験できます。

いわば原始シュミレーションといった方があたってるかもしれません。星見をされている方は多かれ少なかれ体験していることと思いますし、アウトドアや古典的キャンプ(AC有りオートキャンプやグランピングでは無い)などが好きな方も同様の経験があるでしょう。今まであまりそういう経験を語れるほどしていない人間からすると、星に興味をもってから知らないことを知ること(知識としては当然知っていますが、実際に身体で感じるだとか、経験するということ)がとても多く、もっと早く知りたかったなぁといつもそう感じます。

目的は星見なのですが、ある意味星見よりも大事な人間としての原始的な何か感覚というか、そういうのを感じるときが多いのです。

 

 「新月の夜はマジで本当に闇夜」

 

普段24時間光に溢れまくって、田畑も山も無い環境で生まれ育ちましたので、話や知識では過去、闇が恐怖であり火灯りというのが進化の初期のきっかけである、というのは脳内想像などで理解できますしわかっているつもりでした。火は人間になくてはならないもので、火を通して安心と安全と繁栄、そしてその逆の恐ろしさも合わせ持ちますが、それでもメリットの方が計り知れないほど大きいのでコントロールする術を探りながら今日に至るのだと思います。

実際に星見のためにはスイッチひとつでいくらでも昼間に匹敵する明るさを得ることができる状況を捨てて、わざわざより暗い土地を求めて有給休暇や時間、お金を使って向かいます。実に酔狂な行為だと感じます。誰もいない目指す現地に着いて車のキーを抜いて数歩歩いて後ろを振り返ると、(まだ暗順応してないせいもありますが)もう自分の車がどこにあるのかすらわかりません。。。

「や、闇夜というのは こういうものなのか・・・」という具合に立ち尽くします。

これ、都会で生活している方は地方出身者以外、もし同条件に放り込まれるときっとどうしようもなく思考も「え?」と数秒停止するでしょう。だってそうなると過去の経験から既に自覚している僕が毎回そうなのですから(慣れろよ)。

都会ではそういう状況を経験したくとも、闇夜がありません。よっぽど悪いことをしてずた袋を被せられテープぐるぐる巻きにされて港のコンテナに放り込まれてロックされるとか、、そこまで極端な事例は稀ですが子供の頃に押入れに閉じ込められるだとかの古風な罰を受けるだとかは昭和世代では懐かしい思い出でしょう。そういうことからも闇というのは年齢問わず本能的に恐怖が一気にわいてくるものだと思います。まだ火というのをコントロールできなかった時代の人類は、ただ夜になるというだけで本気で強烈な恐怖だっただろうなぁと実際に体験すると少しは想像することができます。

そういうことから、きっと自然発生的に圧倒的な灯りの根源である太陽への信仰というのが全世界各地で生まれたのでしょう。太陽があって作物が育つとか、大いなる恵みだとか散々今でも溢れかえっているワードですが、そういう想いはある程度安定した集団生活になってから生じることで、最初の最初は暗黒の恐怖から本能的に太陽が昇るのを待ち望む気持ちから発生したんじゃないかと。太陽神で有名なのはインカ、アステカ、メソポタミア、エジプト、インド...書き出せばきりがありませんし、なにより日本でも天照大御神は誰でも知っています。更に形式的には皇室の御先祖さまになっていますし全日本人の氏神様で、伊勢神宮は戦前までは国家管轄(今でも実際には似たようなもの)ですから、今意識している人の方が少ないでしょうが太陽神というのは日本だけではなく世界で国規模で今でもお祀りされていて人間の根底に忘れんじゃねーぞと残しているのかもしれません。

同様に、月灯りというのもこれまた全世界の地域で信仰の対象となり、自然と神格化されるのも納得します。星見人は「あぁ、空すごくいいのに満月で星が見えねー!」とけっこう毛嫌いされますが(僕は月も大好きです)、あの明るさは確かに強烈です。古代の人は太陽が隠れてしまってから現れる月(明かり)がどれほどありがたく安心したかということも想像することができます。また、きっとそういう気持ちから発生したであろう神話が世界的にどこも何か似通った話になっていたり、現象の仕組みや世の理が科学的に解明されなかった為にそれを司る存在として全知全能の神を崇拝するようになる(3大宗教とかのまだ比較的歴史が浅い神ではなく先史時代の各地の原始神ともいうべきもののことです)というのも、なんだか気持ちはわかるような気がします。

人間が大規模集団で安定生活をするようになる時期と人間に嫌らしい心が芽生える時期はきっと同期します。そしてもともと真正直な感謝から生じたであろう宗教というのは政治や統治の面でも大いに悪どく利用され、どうしようもないクソな巨大組織となって国の中枢にまで及んでいきますので、当初の神というものからは大きく逸脱していくことがほとんどです。人間がどれほど滅茶苦茶で冷酷な心を持てるのか、という面ではどの宗教も実例としては歴史的に枚挙にいとまがないので、そういう意味では端から見ていると怖くも笑えるくらい興味深い対象でもあり、人間の奢りと恐怖と阿呆度が詰まった対象でもあるといえるでしょう。しかしそんなその時代の人間が小乗利を考えて発展していった近代は僕には興味対象としてはほぼゼロでどうでもよくて、やはり超原始的に発生した畏敬の念というのは人間的に興味がわきますし、そういう発生のメカニズムというのは机上ではいくら巡らせてもわかるようでわからないものかと感じます。

 

さて、少しだけ原始に近い闇夜に放り込まれた人間(自らすすんで行っている阿呆なおっさんの話です)、視覚刺激にかなり頼っている人間の行動能力がガクンと落ちるこういう暗闇、対して夜行性の動物が自由に動き回りその音が四方からガサガサと聞こえます。視覚信号が極端に減ると真性都会人でもニュータイプには程遠いですが自然と聴覚や肌で感じる空気の状態にピキーン!とそれなりに敏感になります。実際に1500m超山間部の観測場所でたった一人、かろうじて切り絵のように見える周囲の木々の方から明らかに中型~大型の動物がおそらくきっと動いてるだろう重たい連続音を聞くと、今まで生きてきた中で感じたことの無い恐怖に全身が緊張状態にビリビリ包まれます。こういう状況になると人間どういう行動をとるかというのはあとで思い出すと笑えてしまいます。

万が一の時の為に武器になりうる物を探して手にとり(僕の場合は赤道儀のシャフトとウェイトでした)まずは足を踏み踏みして音を出そうと試みますがそう大して音がでないことに気付いて(これもまた発見です)、とっさにその場で60年代ロックンロールのツイストの真似事でザッザッザ!という連続音を生み出すという快挙を成し遂げます。そして、頼むからこっちにこないでくれょぉ、、、、というありったけの願いを込めた意味不明の大声を断続的に出してしまったりします。

第三者的に見れば、高山地の誰も居ない暗く広いエリアでひとりおっさんがシャフト片手にツイストしながらジタバタして叫んでいるのですから、存在的にはかなりヤバい人です。もし街なかであれば 見ちゃいけませんっ、と母親は短い言葉で子供の眼を手で塞ぐことでしょう。

万が一家族に目撃されたとしたら「とうとうこうなったか...」と問答無用でずるずると引きずられて座敷牢直行便の所作でしょう。しかしそれくらい恐怖というのは形振り構わないことをええ歳した大人にも自然にさせるのです。

 

普通はそういうことの無いように、火をおこして外敵への威嚇、ココは一時的に人間のエリアだぞ、というテリトリー発信を行うのでしょう。火は灯りの他にそういう意味もあったのだと感じます。

普段偉そうに生きている人間。学校でも生物ピラミッドの最頂点として教えられましたし、なんの疑問も抱かずにノートに書き写してそういうもんなんだと思って生きてきましたが、人間丸腰ではきっと一瞬でエサです。教えられたのとは真逆で生物ピラミッドの一番底辺じゃないかと思います。先生はたぶんこういう経験が無かったので自信満々で「人間は頂点だ」と言っていたのかもしれません。

人間は弱さにかけては全生物の中で天下一品だと思います。だいたい獲物として逃げる能力もほぼ必要ありませんから普段から鍛えることなどしていませんし、戦う能力や技術も一部の人を除いて親からも一般社会からも野蛮なことだと特に禁じられています。狩りをする動物からするとこれほど格好な標的はいないでしょう。少ないエネルギーで捕獲できる獲物はたぶん小動物よりも人間じゃないかと。もし肉食動物が決起して今の現時点で奇襲作戦を現代人間に行うと、かなりの成果がほぼ一瞬で可能かと感じてしまいます。

まぁそんな物騒な想像は映画とか小説だけのことであってほしいですし、星見を好む人種は論理的で大人しい友好的で、それほどダンスが得意ではない種族がほとんどですので、そーっと静かに日が昇るまで目的を達成できればありがたい、ただそれだけなんですが。。。

 

せっかく遠征しても雲が多くクリアな夜空に恵まれなかった時、IC降りてからも登ってくるまで1時間以上かかったし、これで撤収するにはまだちょっともったいない、、という時間になんかそういうことを考えたりしてました。星見ができればそれはそれで最高に嬉しいですが、そうじゃない場合でもいろいろ実際に体験して考えて思いを巡らせることができます。(くやしまぎれとも言いますが)